ロバート・シムソン(英: Robert Simson、1687年10月14日 - 1768年10月1日)は、 スコットランドの数学者、グラスゴー大学の数学教授。シムソン線の功績で知られる。
経歴
1687年、グラスゴーの商人のジョン・シムソン(John Simson)と、レンフルーの大臣であったパトリック・シンプソン(Patrick Simpson)の娘アグネス(Agnes)の17人の息子の長男に生まれた(17人のうち成人に至ったのは6人)。
1701年、シムソンは教会に入るために、グラスゴー大学に入学した。ラテン語、ギリシャ語、論理学、自然哲学のコースを進み、特に神学とセム語を集中的に研究した。 大学で数学を教わることはしなかったが、ジョージ・シンクレアの「Tuyrocinia Mathematica in Novem Tractatus」とエウクレイデスの「Elements」を読んで、数学、特に幾何学に深い興味を示した。大学の理事長が、(その当時解雇されたシンクレアの後任として)数学の学部長の座を与えるほど、彼の熱量は大きかった。 しかし、シムソンは数学分野における正式な養成を受けていなかったので、学部長を辞退した。ただし、1年後にその席を引き受け、数学の知識を増やすことを決めている。
オックスフォード大学への進学に失敗した後は、ロンドンのクライスト病院で過ごした。この間シムソンは、ジョン・キャズウェルやジェームス・ジュリン(王立協会の幹事)、ハンフリー・ディットン、エドモンド・ハレーなどの著名な数学者と貴重な接点を作った。
1711年11月20日、シムソンは23歳にしてグラスゴー大学で教授になった。シムソンの最初の仕事は、数学の第2学年のコースを設計する事であった。いくつかの授業で彼は、自ら教鞭を執ることもあった。彼の講演には幾何学、代数学、対数、光学などがあった。この間の彼の指導学生に、コリン・マクローリン、マシュー・スチュワート、ウィリアム・トレイルなどがいる。1761年、彼は自身の職務を辞め、その地位を彼の弟子の1人であるジェームズ・ウィリアムソンに引き継いだ。
グラスゴーにいた間の1753年、シムソンは隣接するフィボナッチ数の比がある割合(黄金比
1.618033988749....)に近づいていくに言及している。
シムソン自身については次のように述べられている。
Simson appears to have been tall and of good stature. In spite of his great scholarship he was a modest, unassuming man who was very cautious in promoting his own work. He enjoyed good company and presided over the weekly meetings of a dining club that he had instituted … He had a special interest in botany, in which he was an acknowledged expert.
シムソンは未婚の儘、グラスゴーの大学の寮で80歳の生涯を終え、ブラックフライアーズ墓地(現在のラムズホーン墓地)に埋葬された。南の壁には、彼を称賛した記述の刻まれた簡素な記念碑が置かれている。自身の書籍を含んだシムソンの蔵書は、彼の死後に大学に寄贈された。また、彼の蔵書には、主に初等数学と天文学などの書籍が850個ほどあった。
1865年、シムソンの記念碑を建てるため、グラスゴー大学の理事長の(13代目)エグリントン伯爵と、スタンホープ伯爵がそれぞれ10ポンド、シムソンから2つ離れたいとこのジョン・キャリック・ムーアが15ポンドを出した。この記念碑は、フレデリック・トマス・ピルキントンによって、丸い頂華があり、エジプト風の彫刻が成された大きな8角形型の碑に設計された。 ウェスト・キルブライドの丘の頂点に位置している。
作品
シムソンの数学への貢献は、古代幾何学者の作品への、批判的な編集と解説の形式をとっている。最初の著作物は、フィロソフィカル・トランザクションズでの、Porismsに関する論文だった(1723年, vol. xl. p.330)。
その後1735年、エディンバラでSectionum conicarum libri V. が出版された(第二版は1750年出版)。 この専門書の第3巻は「The Elements of the Conic Sections」として何度か英語に訳されている。1749年、パップスの「Mathematical Collection」の7番目の本の補題をもとに、ペルガのアポロニウスの失われた専門書を復元した「Apollonii Pergaei locorum planorum libri II.」を出版した。
1756年、ラテン語と英語でユークリッド原論の最初の6巻、11巻、12巻の訳本を出版した。1762年に出版された英語版にはDataの項も加えられ、長い間イギリスで、ユークリッドの書籍の標準になった。
シムソンの死後、アポロニウスの専門書「De section determinata」とエウクレイデスの専門書「 De Porismatibus」の復元が「Roberti Simson opera quaedam reliqua」という題で、1776年にスタンホープ伯爵によって私的に出版された。この巻は卒業論文「Logarithms and on the Limits of Quantities and Ratios」と古代の幾何学的解析の説明の問題も収録している。
出典
参考文献
- William Trail (1812) Life and Writings of Robert Simson - Google ブックス
- Charles Hutton (1815) Mathematical and Philosophical Dictionary, volume II, p. 395-398 (online copy, p. 395, - Google ブックス)
外部リンク
- Robert Simson, The Elements of Euclid... Errors Corrected... also The Book of Euclid's Data... Corrected 12th ed. (1804)
- Robert Simson's biography at MacTutor archive. シムソンの性格や顔を銃撃されたことについても言及されている。
- Simson's line from Cut-the-Knot
- A Scottish sundial erected by Robert Simson at Kirktonhall, West Kilbride.
- The Memorial to Robert Simson in West Kilbride




