エランブルジュ・デュ・メーヌ(フランス語:Eremburge du Maine, 1096年ごろ - 1126年1月14日)またはエランブルジュ・ド・ラ・フレーシュEremburge de la Flèche)、エランブルジュ・ド・ボージャンシーEremburge de Beaugency)は、メーヌ女伯及びシャトー=デュ=ロワール(仏語版)女領主(在位:1110年 - 1126年)。内祖母ポーラ・デュ・メーヌはボージャンシーのユーグ家出身であり、エランブルジュはメーヌ家の傍系にあたる。

名はエランブールErembourg)あるいはアランブルジュAremburge)と表記されることがあるが、本項目ではエランブルジュの表記で統一する。

生い立ち

中世の修道士であり歴史家のオルデリック・ヴィタリス(仏語版)が著した『教会史』第4巻第2章によると、エランブルジュはメーヌ伯エリー1世とその妻マティルドの一人娘として生まれたという。両親に他の子女はいない。母マティルドはシャトー・デュ・ロワール卿ジェルヴェの娘である。父エリー1世は、オルデリック・ヴィタリスの記録に「エリー、ジャンとポーラの息子でありメーヌ領主ユーグの従弟(ラテン語:Helias, Johannis et Paulæ filius, Hugonis Cenomannorum consulis consobrinus)」とあるように、ラ・フレーシュ卿ジャン・ド・ボージャンシー(1097年没)とその妻ポーラ・デュ・メーヌの三男にあたる。

エランブルジュの内祖母にあたる、父エリーの母ポーラはかつてのメーヌ伯エルヴェール1世エヴィル=シアン(目覚犬伯)の三女にあたり、オルデリック・ヴィタリスの『教会史』第8巻第3章にも、そこにはポーラの名は記されていないが「エルヴェール(filia Herberti)とその妻(名前も系譜も不明の女性)の三女として産まれる」と記されている。

生涯

1106年、イングランド王ヘンリー1世は、実兄であるノルマンディー公ロベール2世からノルマンディーを奪った後、父に促されてメーヌ伯領を弱体化させるようになった。

父メーヌ伯エリーはアンジュー伯フルク4世に近付き、娘エランブルジュとアンジューの相続人となるフルクの息子(最初は長男ジョフロワ4世マルテルと婚約、後の1106年に次男フルクに相手を変更)との婚約に合意した。

エリー1世は、没するまでさらに10年間領地を維持した。エリーは『アンデガベンシスのサンクティ・アルビノの年代記(ラテン語:Annale Sancti Albini Andegavensis)』によると1110年7月11日に死去した。

「娘エランブルジュが父の後を継ぎ、その後すぐにアンジュー伯フルク5世と結婚し、メーヌとアンジューが再統一された。」とされている。

イングランド王ヘンリー1世が1069年に実兄ノルマンディー公ロベール2世が喪失したメーヌの統治権を取り戻そうとしたため、外交的解決策が見出されるまで、ノルマンディーとの関係は対立を続けていた。

1119年、エランブルジュと夫アンジュー伯フルク5世は、2人の長女マティルドをヘンリー1世の嫡男で唯一の後継者ウィリアムと婚約させ結婚させたが、1120年にホワイトシップの遭難でウィリアムが事故死したため、和睦の試みは失敗に終わった。

アンジューとノルマンディーの関係はメーヌを巡って再び緊張し、若き日のフルク5世はフランス王ルイ6世と同盟し、イングランド王ヘンリー1世に対抗したが、再び外交的解決が図られた。しかし、その数ヶ月前の1126年1月14日にエランブルジュは死去し、その日を見ることはなかった。

メーヌ伯の称号は夫フルク5世に遺された。

妻を喪ったフルク5世はフランスの領地をすべて息子のジョフロワに譲渡した後、エルサレムに渡り、エルサレム王ボードゥアン2世の長女メリザンド(英語版)(1101年 - 1161年)と再婚した。

子女

エランブルジュは夫フルク5世との間に以下4子に恵まれた。

  • ジョフロワ5世(1113年 - 1151年) - プランタジネット朝の祖、メーヌ伯、トゥール伯及びアンジュー伯、ノルマンディー公
  • エリー(伊語版)(1115年 - 1151年) - メーヌ伯
  • マティルド(アリス)(伊語版)(1110年 - 1155年) - イングランド王太子でありノルマンディー公位相続人であったウィリアム・アデリン(1103年頃 - 1120年11月20日)の妃。寡婦となった後、修道女となりフォントヴロー修道院女子修道院長(1149年 - 1155年)となった。
  • シビーユ(1112年 - 1165年) - 1123年にノルマンディー公ロベール2世の嫡男フランドル伯ギヨーム・クリトンと結婚。後に1124年に婚姻は無効になり、1139年にフランドル伯ティエリー・ダルザスと再婚した。

注釈

脚注

参考文献

一次資料

  • (ラテン語) Orderici Vitalis, Historia Ecclesiastica, tomus II.
  • (ラテン語) Orderici Vitalis, Historia Ecclesiastica, tomus unicus.
  • (ラテン語) Recueil d´annales Angelines et vendômoises.
  • (ラテン語) Chronica de Gesta Consulum Andegavorum, Chroniques d'Anjou.
  • (ラテン語) Historia Rerum in partibus transmarinis gestarum.

史学文献

  • Muratori L. A. Delle Antichità Estensi ed Italiane, Parte I.
  • Louis Halphen, "La Francia dell'XI secolo", cap. XXIV, vol. II (L'espansione islamica e la nascita dell'Europa feudale) della Storia del Mondo Medievale, 1999, pp. 770–806.
  • William John Corbett, "L'evoluzione del ducato di Normandia e la conquista normanna dell'inghilterra", cap. I, vol. VI (Declino dell'impero e del papato e sviluppo degli stati nazionali) della Storia del Mondo Medievale, 1999, pp. 5–55.
  • William John Corbett, "Inghilterra, 1087-1154", cap. II, vol. VI (Declino dell'impero e del papato e sviluppo degli stati nazionali) della Storia del Mondo Medievale, 1999, pp. 56–98.

関連項目

  • アンジュー
  • メーヌ
  • フランス君主一覧
  • フランスの州 (フランス革命以前)
  • ノルマン人

外部リンク

  • (英語) Foundation for Medieval Genealogy: Nobiltà del Maine - EREMBURGE du Maine, su fmg.ac.
  • (英語) Foundation for Medieval Genealogy: Nobiltà dell'Angiò - EREMBURGE du Maine (FOULQUES d'Anjou), su fmg.ac.
  • (仏語) Les Seigneurs du Maine: La deuxième Maison du Maine.

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