松平 忠充(まつだいら ただみつ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。伊勢国長島藩の第2代藩主。官位は従五位下・佐渡守。
生涯
慶安4年(1651年)、伊勢長島藩の初代藩主・松平康尚の次男として長島で誕生。貞享2年(1685年)10月7日、父が病気を理由に隠居したため家督を継いだ。
しかし貞享4年(1687年)10月には些細なことから家臣3人を追放するなど、早くも暗君としての片鱗を現していた。この資質は父の死後の元禄15年(1702年)8月15日、重臣3人を切腹させ、さらにその子4人を死刑にするという乱行で現れる。この事件の遺族が幕府に訴えたため、この乱行は幕府の知るところとなり、8月21日に狂気であるとして改易に処された。
しかし徳川家康の異父弟松平康元に繋がる家系のため、特別の配慮をもって四男・康顕(やすあき)に信濃国佐久郡5,000石(下県知行所)、五男の尚慶(なおよし)も同地1,000石の旗本として存続を許された。康顕はその後早世し、尚慶が兄の跡を継ぎ康郷(やすさと)と名乗り、明和2年(1765年)下総国飯笹6,000石に転封。子孫は同地で交代寄合旗本として存続した。
享保14年(1729年)12月4日に死去した。享年79。
系譜
- 父:松平康尚
- 母:不詳
- 正室:松平典信娘
- 長男:松平忠章(1672-1735)
- 側室
- 五男:松平康郷(1693-1789)
- 生母不明の子女
- 四男:松平康顕
- 女子:岩城秀隆正室
- 女子:松平忠一正室
- 女子:
脚注
参考文献
- 「寛政重修諸家譜 巻第52」




