メンゲブル (蒙格布祿) は明朝末期のハダナラ氏女真族。初代ハダ国主・ワン (王台) の末子、四代国主。
ワンの死後、甥・ダイシャン (第三代国主)、兄・カングルとで国を三分し、ハダの衰頽を加速させた。カングルが病死し、ダイシャンがイェヘの謀略で殺害されると国主に即位したが、即位前、即位中を通じてイェヘの策略に踊らされ、最後もイェヘの奸計でマンジュ (建州部)、後のアイシン (後金) のヌルハチに囚われた挙句、ヌルハチ暗殺の嫌疑をかけられて殺害された。
略史
万暦10 (1582) 年旧暦7月、初代ハダ国主・ワンが死去。それに伴いワンの長子・フルガンが二代国主に即位したが、不満を抱くワンの私生子・カングル (フルガンの弟) との間に確執が生じ、カングルの殺害を謀った。カングルはイェヘに亡命したが、即位から一年ほどでフルガンが病気の為に急逝し、継いでフルガンの子・ダイシャンが三代国主に即位する。この時、メンゲブルは若干19歳にして父・ワンの龍虎将軍、左都督を承襲したものの、国を統率する力はなかった。
万暦11 (1583) 年旧暦7月、ハダへの復讐を企てるイェヘ国主・チンギヤヌ、ヤンギヌ兄弟がハダの叛臣・ベフチ (白虎赤。フルガン統治期に背離) と結託し、更に蒙古ホルチン部ウンガダイ、ノムトゥを糾合した騎兵10,000を引率れてハダの把吉 (バギ) 部落を襲撃し、首級300を挙げ、甲冑150を掠奪した。同年旧暦8月、メンゲブルの要請を容れて明朝が勅書を出し、イェヘ側の弾圧を図ったが功を奏さず。イェヘ側は更に猛骨太、那木塞の兵を糾合し、メンゲブル所領の民家や田畑を焼き払った。明朝が懐柔を図るも、イェヘ側はハダを却って成敗する勅書を要求し、続いて同年旧暦12月にダイシャン所有の荘園1、末叔・メンゲブルの荘園10、二叔・サムハトゥ (三馬兎) の荘園10を火の海にした。更にまたウンガダイの騎兵2,000を連れて南関の貢市に現れ、沙大亮部落を陥落させた挙句、300人を拉致し、貢勅を要求した。ダイシャンとメンゲブルは騎兵2,000で迎撃したが太刀打ちできなかった。
万暦12 (1584) 年、明朝・李成梁がチンギヤヌ、ヤンギヌ兄弟を誘き出し誅殺した。
国家分裂
万暦15 (1587) 年旧暦4月、イェヘ東城主・ナリムブルが蒙古ホルチン部ウンガダイの騎兵10,000を引率れてハダ領のバタイ (把太) 部落を急襲したが、ハダは明朝の介入で急場を凌いだ。時を同じくして、フルガン死亡の報せを聞いた兄・カングルがハダに帰還し、次いで父・ワンの側室・温姐を娶った。温姐は明朝に誅殺されたイェヘ元国主・チンギヤヌ、ヤンギヌ兄弟の妹であり、メンゲブルの母でもあった。イェヘはハダに対する宿年の恨みを霽らそうと、温姐とカングルとを密通者とし、メンゲブルを教唆してダイシャンとの対決姿勢を露わにした。ここにハダ国内は甥・ダイシャン、メンゲブル、兄・カングルの三つ巴となって内部分裂を起し、国力衰頽を深刻化させることとなった。
同年旧暦6月、ナリムブルがウンガダイの騎兵5,000を率いて再びダイシャンを襲撃すると、内応したカングルがダイシャン属部の阿台蔔花を扇動して謀叛を起させ、ダイシャンの財産や家畜を掠奪し、更にメンゲブルもカングルらと策応してダイシャンの妻・哈爾屯を拉致し殺害した。ダイシャン勢力の安定を望む明朝が介入し、メンゲブルの入貢資格を停止して、更に属部や領地、家畜をことごとくダイシャンに帰属させたが、それでもメンゲブルはダイシャンとの和睦を拒否し、イェヘ西城主・ブジャイ、ナリムブルに連れ立って開原 (現遼寧省鉄嶺市開原市) に入った。この時、同行していたカングルと温姐が、陣所にいたところを開原兵備副使・王緘の派遣した明兵によって捕縛された。ところが、巡撫・顧養謙がメンゲブルに対し「岱善と和し,掠むる所を還せ,否(しからず)ば則ち若(なんぢ)の母の頭を斷たむ」と警告すると、王緘はメンゲブルを刺激して余計に離反させることを危惧し、カングルのみ残して温姐を釈放した。イェヘ側に脅迫されたメンゲブルは、ナリムブルに従ってダイシャンを挟撃し、更に自らの居住する部落を焼き払い、釈放された母・温姐を連れてイェヘに高跳びした。顧養謙らの奏請によりメンゲブルの龍虎将軍の職は剥奪され、王緘は弾劾されて職を解かれた。
明朝介入
万暦16 (1588) 年旧暦2月、巡撫・顧養謙らはイェヘ討伐を決定した。同年旧暦3月13日、大将軍・李成梁率いる明軍は、月の沈む頃に海州 (現遼寧省鞍山市海城市=海州衛?) を出発し、開原、威遠堡、イェヘの属部・落羅部落を経て、イェヘの西城に到着した。西城主・ブジャイは明軍の到来をみるや城を棄て、ナリムブルがいる東城へ奔り、兵力を統合して明軍に対抗しようと画策した。明軍は苦戦しながらも大砲で城壁を破り、二日以上に亘る激戦の末、(貢勅の分配を条件に)イェヘを降伏させた。同月、明朝ではハダ存続に向けた方針について議論が交わされ、結果、幼いダイシャンの補佐に当てようと、カングルを釈放することとなった。ダイシャンは内政を明朝に恃み、姻戚関係でヌルハチのマンジュ (建州部) と繋がっている為、この決定を通してイェヘの謀略を挫くことが期待された。
同年旧暦4月1日、カングルが釈放され、ダイシャンと和睦した。続いて明朝はイェヘの使者に会い、フルン (海西女直) に分配された全999道の貢勅のうち、明朝に忠義を貫いてきたハダに500道を、今後明朝に忠義を尽くすのであればイェヘには1道少ない499道をそれぞれ与えることを伝えた。一方、温姐を携えて自らの部落に帰還したカングルは数箇月後に病死した。カングルの貢勅181道はメンゲブルの手に渡ったが、メンゲブルはイェヘへの移徙を企図し、嫌がる母・温姐を無理やり拉し去った。同年旧暦7月、温姐も乳瘡 (乳腺炎)により死去した。
実権掌握
万暦16 (1588) 年、イェヘは相変わらずメンゲブルを唆してダイシャン討滅を謀ったが、明朝はブジャイ、ナリムブル、メンゲブル、ダイシャンらに対し、互いに恨みを忘れ、四者揃って入貢するよう命じた。この後、ブジャイがダイシャンに娘との婚姻を許した。
万暦19 (1591) 年旧暦正月、ダイシャンはブジャイの娘をもらう為イェヘを訪れたが、これはイェヘ側の仕組んだ策略であった。ハダへの帰路で、ダイシャンはナリムブル、ブジャイ二人が秘かに差し向けた擺思哈により射殺された。メンゲブルはダイシャン暗殺をきくとハダへ帰還し、四代国主に即位した。ダイシャンの遺子は政治をするには幼なすぎた為、明朝はダイシャンの属部および貢勅137道を暫時メンゲブルに託することにした。
打倒建州
万暦19 (1591) 年、イェヘ東城主・ナリムブルはマンジュ・グルン (建州部) へ使者を派遣して領土の割譲を求めたが、ヌルハチに拒否された。続けてナリムブルはメンゲブル、ホイファ国主・バインダリらとともに再び使者をマンジュへ遣って脅迫した。
万暦21 (1593) 年旧暦6月、脅迫に屈しないヌルハチに対し、フルン四部聯合軍としてマンジュ属部のフブチャ部落を襲撃、掠奪した。ヌルハチは報復措置としてハダ属領のフルギヤチ部落を急襲し、更に伏兵を忍ばせてメンゲブルらを誘き出した。メンゲブルは計略にかかって出動し、複数の兵でヌルハチを取り囲んだが、伏兵に迎撃されて退却した (→「富爾佳斉大戦」)。
同年旧暦9月、フルン四部にモンゴルなどを加えた九部の連合軍が、ヌルハチ征討の旗印の下に結集し、グレの山でヌルハチ軍と激突した。しかし畢竟、烏合の衆に過ぎなかった連合軍は大敗を喫し、メンゲブルはまたも命辛々遁走した。この戦いでイェヘは西城主・ブジャイが殺され、ウラは国主の弟・ブジャンタイ (後の四代国主) が捕虜として連行された。 (→「古勒山の戦」)
万暦25 (1597) 年旧暦正月、イェヘを筆頭にフルン四国が使者を送り、ヌルハチに媾和を求めた。対するヌルハチは釘を挿していった。
「汝等此ノ盟言ニ應ヘタレバ則チ已メム。然ラズンバ、吾三年ヲ待タム。果シテ相好セズンバ、必ズ兵ヲ統ヰテ之ヲ伐タム。」(『滿洲實錄』巻2)
しかるにその後、ナリムブルは早速背盟し、ヌルハチの馬を掠めた。
万暦26 (1598) 年、メンゲブル居城の北にある渓流に沿って血が流れた。
国家滅亡
万暦27 (1599) 年旧暦5月、イェヘ東城主・ナリムブルはハダが管轄する南関の貢市を虎視眈々と狙い、ハダの勢力的孤立の隙を突いて同国に侵攻すると、貢勅60道を横奪した。抗しきれなくなったハダ国主・メンゲブルが、自らの三人の子女を人質としてマンジュ・グルン (建州部)に送り援軍を求めると、ヌルハチはそれに応えてグワルギャ氏フュンドンとイルゲンギョロ氏ガガイに兵2,000をつけ、ハダへ派遣した。ナリムブルはハダとマンジュの連携を阻止しようと、開原城 (現遼寧省鉄嶺市開原市) の通事 (明朝官吏) を介し、「援軍のフュンドンらを奇襲して執え、人質を取り戻してマンジュ兵を殺すことができたら、前から求めていた娘を妻として与えよう」とメンゲブルを唆す一方で、マンジュ側にはメンゲブル叛乱の噂を流し、ついにヌルハチを激怒させることに成功した。
同年旧暦9月、ヌルハチはメンゲブルの居城であるハダ・ホトン (哈達城) を陥落させると、機に乗じてメンゲブルとウルグダイ父子を捕虜として居城へ連行し、ハダの部落を掠奪した。メンゲブルはその後ヌルハチ膝下で訓育されることとなった。
断罪処刑
万暦28 (1600) 年旧暦4月、ヌルハチの妾・法頼と姦通し、ヌルハチ殺害を企てたとしてメンゲブルが処刑された。この時、謀叛を事前に報せなかったとしてガガイが連座し処刑され (法頼も処刑)、また、ヌルハチは法頼の代りとしてメンゲブルの妾・松代速代を娶った。子・ウルグダイは明朝の介入で一度はハダを復興させるが、明朝に見放されて国を立て直しきれないまま、イェヘの侵攻を受け続け、ヌルハチに投じてハダは完全に滅亡する。
子孫
系図
*本項目は『八旗滿洲氏族通譜』巻23「哈達地方納喇氏」を基に作成した。それ以外に出典がある場合のみ別途脚註を附す。(次の「栄典」の項目に就いても同様。)
*父不詳の人物全てに別々の人物を父あるいは父祖として充てていては際限がない為、適宜、父不詳の人物同士でまとめた。譬えば、萬の来孫なる人物が複数人でてくる場合、兄弟なのか、従兄弟 (いとこ) なのか、再従兄弟 (はとこ) なのか不明でも、便宜上同じ一人の人物の下にまとめた。反対に、人物をあえて分けたものでも、詳細情報のない人物同士であれば同一人物である可能性も考えられる。
- 長子・ウルグダイ:メンゲブルの長子。末代ハダ国主。
- 子・ゲバク (革把庫):メンゲブルの次子とも。ヌルハチに一度は連行されたが、明朝の介入でハダに帰還した。
- 子・ニェクセ (niyekse, 聶克色):メンゲブルの次子とも。
- 孫・ニェヘ (niyehe, 聶赫):ニェクセの長子。三等侍衛を務めた。
- 孫・フムブ (hūmbu, 渾布):ニェクセの次子。太僕寺少卿を務め、佐領を兼任した。
- 曾孫・ニンガン (ninggan, 寧安):フムブの子。佐領を務めた。
- 玄孫・フショウ (fušeu, 福綬):ニンガンの子。佐領を務めた。
- 曾孫・ニンガン (ninggan, 寧安):フムブの子。佐領を務めた。
- 孫・ラハ (laha, 拉哈):ニェクセの三子。頭等侍衛を務め、佐領を兼任した。
- 孫・ドゥイチン (duicin, 兌親):ニェクセの四子。三等侍衛を務めた。
- 曾孫・シェンガン (šenggan, 盛安):ニェクセの孫。父不詳。都統、刑部侍郎を務めた。
- 曾孫・セルテイ (sertei, 塞爾特):ニェクセの孫。父不詳。佐領を務めた。
- 曾孫・ライブ (laibu, 来布):ニェクセの孫。父不詳。員外郎を務め、佐領を兼任した。
- 曾孫・バイシャン (baišan, 拝善):ニェクセの孫。父不詳。御史を務め、佐領を兼任した。
- 曾孫・ヤルドゥ (yardu, 雅爾都):ニェクセの孫。父不詳。藍翎侍衛を務めた。
- 玄孫・カトゥンガ (katungga, 喀通阿):ニェクセの曾孫。父不詳。生員。
- 子・モロホン (morohon):ウルグダイの弟。シュルハチの娘を娶ったが、明朝への亡命騒動を起し、夫婦揃って処刑された。
事績・栄典
ニェクセは職能を評価され三等軽車都尉を授与され、三度の恩賞で一等軽車都尉兼一雲騎尉に昇級した。ニェクセの次子・フムブが襲職したが、病気を理由に退官し、フムブの子・ニンガンは襲職時にニェクセの恩賞に加増分を削られ、三等軽車都尉に降級した。ニンガン死後は、子のフショウが襲職した。
参照先・脚註
参照文献・史料
書籍
- 茅瑞徵『東夷考略』1621? (漢文)
- 弘昼,鄂爾泰 ,福敏, 徐元夢『八旗滿洲氏族通譜』巻23「哈達地方納喇氏」1744年 (漢文)
- ortai(鄂爾泰)"han i araha jakūn gūsai manjusai hala be uheri ejehe bithe(欽定八旗氏族通譜)"乾隆10年(1745)
- 編者不詳『滿文老檔』1775年 (満洲語) *1905年に内藤湖南が発見。
- 編者不詳『大清歷朝實錄 (清實錄)』「滿洲實錄」巻2, 1781年 (満洲語・漢文・モンゴル語)
- 趙爾巽, 他100余名『清史稿』巻223, 清史館, 1928年 (漢文)
- 安双成『满汉大辞典』遼寧民族出版社, 1993 (中国語)
- 胡增益 (主編)『新满汉大词典』新疆人民出版社, 1994 (中国語)
- 松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』白帝社, 1995年




